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第2章 その、小さくて、情熱あふれる機械
なにがどうなったのか、細かいことも大雑把なことも、何も覚えていないのだが、すた坊は関西で商売を始めることになった。パソコンのサポートをする商売だった。教室をひらいて、生徒を集めて教える。また、現地に行って設定をしたり、トラブルを解決したり、買い替えの相談、ソフトの相談に乗ったりする、なんでも屋である。
この頃のすた坊は、とにかくマッキントッシュにとりつかれていた。愛するものは、六色のアップルロゴ。マックに生きて、マックのために死ぬのだ。気がつくと、半年で400万円くらいのお金をマックのために使っていた。お金は果たしてどこからでてきたのか、いまいち判らないのだが、なんとか稼いでいたのは確かだ。パワーブック180C、150、5300C、2300C、パワーマック、SE/30、パフォーマ、スキャナ、デジタルカメラ、昇華型プリンター、ファックスプリンター付きコピー、ネットワーク、フォトショップなどのアドビソフト、プロ用ドローソフト、会計ソフト、CAD、ゲーム、ユーティリティ、アップルキーホルダー、ボールペン、熱帯魚、スーパーその日暮らし、そんなものたちが、すた坊のまわりにあふれていた。マックのソフトウェアは名作が多く、大体ひとつの分野でひとつの素晴らしいソフトが出ているので、とにかく欲しくなってしまうのだ。全部使うことなんて、もちろんできはしないし、大体必要ない。でも欲しい。
がんがんインストールするから、いつでもマックは不安定だ。一日に何度も初期化することもあった。昔のシステムや英語のシステムをわざわざインストールしたりもした。必要ないのに日本語化キットを2万円で買ったり、読めないくせに韓国語をインストールしたりもした。「Macintoshシークレット」というへヴィな本を、隅からすみまで読んだ。雑誌は月に15冊というペースで買い漁った。その中の記事でおもしろそうなことを、片端から試していった。
そんな狂乱の日々を経て、すた坊はやたらとマックに詳しくなっていったのだが、それが本業に役立っていたのだから、しあわせな人間なのだろう。
相変わらず、ファイルメーカーをちまちまといじっていた。ただ、なにも体系的に勉強したわけではなく、体当たりの実践だけだったので、きちんとしたデータベースが作れたわけではなかった。エクセルのピボット集計ですら、この頃はじめて覚えたくらいだった。
それでも、素人がつくったものだけに、素人にその構造が理解し易く、また、ファイルメーカー自体のインターフェースの簡単さから、ユーザーが自身でその詳細を変更できる。その辺が、お金をかけて作らせたシステムより、結局すた坊のデータベースが現場で使われる原因だったのだろう。
もうひとつ、すた坊がなんとか暮らしていけたのは、現場に密着したサポートができたおかげだ。困っている人がいれば相談に乗り、パソコンで解決できることはなんとかしようとした。パソコンがわからない人には、どの部分がわからないのかを一緒に考えて、原因を見つけて解決した。つい先日まで初心者だったため、すた坊はまだ消化していない知識を、そのまま生徒に教えることができた。
でも、あまり儲からなかったし、けっこう暇だった。暇だと人間、なにをするのか判らないところがこわいところだ。すた坊は、パソコンでできること、なんでもやってみようと、外に持ち出して実験を始めた。
ノート型パソコンが実現できることとして、「机の上の作業環境を、そのまま持ち運べる」ということがある。これはマッキントッシュをはじめとした現在のパソコンが目標とした「デスクトップ」という概念がそのまま反映されていて、つまり、ノートが一台あれば、そのままどこででもオフィスにいるのと同じように作業ができる、はすだ。ワープロを打つぐらいなら簡単だし、通信による打ち合わせ、資料の収集やスケジュール管理、プレゼンテーション、そういったことがどこででも可能になる、はずである。すた坊が愛用したのは、パワーブックのDUO2300Cであった。アメリカから200ドルで輸入したもので、英語のシステムで、日本語キットをインストールしていた。メニューやダイアログが英語で、しかもChicagoというフォントで表示されるので、なんか自分が特別な人間になったみたいで、一人悦に入っていた。フロッピーもCDもついていない、実にシンプルなマシンで、サイズはA4、重量は2.2kg。持ち運ぶには少し重いかなといった感じだが、実際に持って運んでると、かなり重い。WindowsのマシンにはB5サイズで1kgというものもあり、機種も豊富だったが、すた坊にとってマック以外のパソコンは、「変な、かっこ悪い箱」でしかなかった。ただしこれは、後にソニーのパソコンがでて変わることになる。
小さいパソコンというのは、作業をするということになると、小さくした分、キーボードが使いにくかったり、長時間の作業には向かないなど、操作性が犠牲になっている。その点、DUOのキーボードは非常に叩き易かった。キータッチの強い人はすぐに壊してしまいそうなつくりだったが、すた坊には相性がよかった。なによりも、余計なひらがながキーに印刷されていないので、ちょっとクールな感じがした。なんでもかんでもくっつくように設計されている機種は、値段も高く、持ち運ぶには結構気を使う。日本人はどうも「あたりさわりのない」、なんでもできそうな機種が好きなようで、デスクトップ並みの性能の機種が売れていた。意地悪くいえば、「なんでもできそう」というのは「何もできない」ということだ。要はバランスの問題なのだが、この辺に当時、どのメーカーも気がついてなかった。
夏のお盆休み、すた坊は淡路島へ遊びに行った。
パワーブックとデジタルカメラを持ち、その行程を写真にとって、リアルタイムでメールを送ろうという、いかにも素人が新しいものを買ってすぐに試したくなるような旅行である。神戸からフェリーに乗って、瀬戸内海を渡る。天気は快晴だ。潮風に吹かれながら、すた坊はぼおっと海の彼方を見ていた。生来からすた坊には、どこででもぼおっとする癖があった。小さい頃はよく田んぼに落ちたし、大きくなってからも、テスト中に隣の女の子をぼおっと見ていて、いらぬ空想にふけっていたおかげで、カンニングだと思われて怒られたこともある。きっと、どこか頭の部品が足りないのだろうと、自覚し始めたのは小学生の頃だった。この時も気がついたらもう淡路島に着いていた。到着直前、あわててデジカメで船内をぱちぱち撮ってまわる。船内はアベック、老人、まあ普通の人々がうようよいた。この人達を撮っていて、あとで実は船内で殺人事件が起こっていて、それをこのカメラが写していたとか、ならないかな。
ならない。
港に到着して、バスを待つ間に一仕事しようとした。パワーブックを開けて、デジカメをつなぐ。パソコンはスリープからの起動なのでそんなに遅くはない。ただ、シリアル接続なので、やはり線がごちゃごちゃと煩わしい。画像を読みこみ、簡単なメールを書いて、添付書類にした。さあ、送信だ。次に、またごちゃごちゃとモジュラーケーブルを取りだし、PHSに接続する。なつかしの、「見なし音声発信」である。
その間にも、気があせった。なぜなら、バッテリー残量がこころもとないのだ。パソコン本体もそうなのだが、特にこの頃のデジカメは、別売りのACアダプタを使わないと、電池の消耗が激しい。ひと手間でも少なく、作業を終えねばならない。そして準備は終わった。送信。すげえ、ひやひやするぜ、スパイ映画みたいだ。かっちょいい。
すた坊のPHSには、「圏外」とでていた。
なんにもならないじゃないか。その前に、確認しておけよ。
そうこうしている内に、バスが来て、すた坊は結局友人の家でメールを送信することになる。ちなみに、パワーブックもバスに乗っているうちに電池が切れてしまった。
帰りの船中も快適な空だった。すた坊は子供のように、船の手すりに乗り出して、海を眺めていた。ここで、海に死体とか浮かんでいて、誰か女の人がきゃあっとか言って、すぐ横の美人の女の人がそそくさと立ち去って、実はすごい秘密をもっていて、その後を追いかけたりして、いい仲になって、一緒に難事件を解決するってことにならないかな。
ならない。
画像データや、書類、データベースはパソコン上で操作しなくてはいけないから、そもそも仕事場で、腰を落ち着けてやるもんだ。でもせめて、住所録とスケジュール管理くらいは、持ち運びたいものだ。それと、電子メールもやれたらいいな。
機能を限定して使えばいいのだ。なんでもかんでも、パソコンに詰め込むのは無理があるだろう。そのことに気づいた。そうか、別にノートパソコンである必要はないんじゃないか。
また、すた坊の迷走がはじまった。
パソコンに代わる、小型の機械といえば、そうなるとまた電子手帳になるではないか。すた坊は池袋時代に戻ったわけである。
電子手帳といえば、「ザウルス」が王様だった。これで決まり。PI5000がファックスモデム付きで売っていた。衝動買いをしてしまって、ザウルスで通信するためにニフティにも入った。当時は、まだインターネットはメジャーではなかったのである。マックとの連携に、ザウルスリンクも買った。ケーブルも別売りなので、けっこう高くついた。それでも、データのやり取りに手間がかかるのが、結局ストレスになっていた。ただデータを一致させるだけでいいのに、なんでこんな手間がかかるのか。でもそのおかげで、ファイルの交換に、CSVなどのテキストデータを使うことをおぼえた。さらに、EXCELを使えばデータの区切り方も指定できるので、たいていのデータは無駄にしなくて済むことも発見した。データベースをつくっている人間のくせに、この頃やっとそういうことができるようになったのだ。
2週間くらい、夢中で使った。そしてだんだん、電話帳しか使わなくなって、最後は結局、ザウルスも使わずに、紙のメモ用紙に戻ってしまった。
いったい、なにがいけなかったのだろう。
ザウルスの各種のモデルは、実に充実している。ポケットザウルスなんか、あの薄さと軽さでモデム内蔵、機能も高性能で、「実用的である」という一点をとっても、世界でも類を見ないほど完成されたマシンだろう。でもすた坊は、「なんでもそつなくこなす優等生」という感じが嫌いなのだった。
多機能なのはいいのだが、そこに「自由」を感じられないからだと、すた坊は思った。すべて機能は内蔵していて、それはすべてマニュアルを読んで操作する。分厚い、何冊にもわかれたマニュアルだ。パソコンのようなデスクトップの感覚はなく、決められた手順で、決められたメニューを呼び出して操作するしかない。それは、マックに慣れたすた坊には苦痛だったのだ。
手書き認識も、よく考えたら理不尽な機能だった。なんで書き順をきちんとしなくてはいけないんだ?なんで機械に合わせて、人間がしっかり書いてあげないといけないんだ?機械が人間に要求する操作が、あまりにも多すぎた。
おれは自由なんだぜ。おまえなんかに、おれのスケジュール決められてたまるかよ、と自分でスケジュールいれといて思ってるんだから、勝手なものである。
ザウルスの便利さは、敷かれたレールの上を走る便利さであって、自由ではないんだ。
それが、すた坊の結論だった。
仕事のできない男の言い訳といえば、そうともとれる。
友人が東京で結婚式をあげることになって、なぜかすた坊が招待された。大学時代の友人で、すた坊にはは友達がいなかったので、新郎からの招待は気恥ずかしくもあり、同時に嬉しくもあった。新婦の女の子は、とてもかわいくて、大学時代はアイドル的な存在だった。すた坊も何度か、一緒に歩いてる夢を見てはどきどきした娘だ。でも実際に話しをしたことは1回だけだった。そんな彼らの結婚式をデジカメで撮って、さらに手記と一緒に職場まで送ってしまおうというのが、今回の計画である。
すた坊は前日に東京入りして、友人の家にころがりこんだ。2年ぶりくらいの友人は全然変わってなくて、部屋は汚く、落ち着かなかったので外に出て一緒に飲んだ。たくさん飲んで、何時に部屋に戻ったのか、覚えていない。その当日、11時30分に虎ノ門駅に集合ということだったが、すた坊が江古田の友人の家で目を覚ましたのは、11時40分だった。なんだか訳が分からないうちにタクシーを飛ばして、なんとか結婚式の始まる12時30分には間に合った。そこで、すた坊は御祝儀も渡さないままで、式場の新郎新婦にあいさつして、華やかな披露宴の場に臨んだ。
そしてその時はじめて、デジカメを忘れてきたことに気付いた。パワーブックだけだ。
なーにをやってるんだ、おれは。
失敗を忘れるために飲んだ。
飲まなきゃあ、損だ。
この辺が、人間として間違っている。
同じテーブルには新婦のお友達の、それはそれはきれいなお姉さんたちがたくさんいた。なんでも、お姉さんたちの職場はさる宝石屋さんで、そこは美人だけが入れる会社なのだそうだ。
いかしたカンバーセーションでおきゃんなあの娘のハートをゲットしようと、すた坊がなにか話しても、その言葉は怪しい関西弁になって、ただの「おもしろい人、でも、どうでもいい人」になってしまっていた。
恋人になって、そして結婚まで至る相手には、友達の結婚式で知り合うというのが、男と女の関係で多いらしい。
どうでもいい。
12時半から飲み始めたすた坊の前には、ビール瓶が5本6本とたまっていく。ワイングラスも何本か空いていた。おお、日本酒まで空いているぞ、いつの間に。
テーブルには、ナイフとフォークが何種類も並べられていた。目の前の料理はちょっとわからない名前で、焼いたんだか煮込んだのかも知らないが、でかい皿にちょこんと乗せられていて、すうっとお皿に線をひくように、ソースがかかっていた。食った。すた坊は胃がうれしいんだか苦しいんだかよくわからなくなっていった。
いつの間にか、結婚式ははけて、場所を移動した。そのあと、2次会もひたすらわけがわからなく、3次会ではカラオケをやった。可哀想なパワーブックは、いつも隅のほうに追いやられて、テーブルの下で蹴飛ばされ、カラオケでは酔いつぶれた友人のまくらになった。やや明るくなっていく朝の空の下、すた坊は東京の街を、すえたにおいの染み付いたカバンにパワーブックを入れて、さ迷い歩いて友人の家に転がり込んで、寝た。大体18時間ちかく、アルコールを摂取しつづけたことになる。
結局、パソコンを持っていても、なんの仕事もできなかった。
「手軽に持ち運べて、場所を選ばずにかたかたと快適に文章を打ち込みたいめる、そんな機械がほしいんだ!それがあれば、どこでも仕事ができるんだ!」
そんなのは詭弁であった。飲んだくれが、なんの仕事だ。
次の日、すた坊は秋葉原へ向かった。ずっと気になっていた機械、ニュートンを見るためだ。
ショップにデモで置かれていたのは、ニュートンメッセージパッドの130だった。少しだけ店員から説明を受けた。今はキャンペーン中で、メモリカードがおまけについてくるという。ぐりぐりと画面をペンでなぞると、なんともいえない線が描かれていく。ぐるんと円を描くと、それが自動的に調整されて、正円になったりする。アルファベットを書くと、すた坊のへたくそな字体でも、ちゃんと認識してくれた。なんてかわいらしいフォントだろう。しかも、消したい項目をぐしゃぐしゃー、てやると、ぼんっ、て消えちゃう。さーらーに、「Delete」を選ぶと、くしゃくしゃーってなって、ポイッて捨てちゃって、ばたんってゴミ箱のふたも閉まっちゃう。
このあたりから、すた坊の記憶はない。
気がつくと、MP130と10MBのラムカードとニュートンキーボードと電子メールソフトにデータ転送ソフト、モデム、その他目についたソフト2、3本を、ショップの一番大きい袋に入れて、すた坊は新幹線に乗っていた。領収書はもらったが、そんなものはどうでもいいのだ。新幹線の中で、我慢できない子供のように箱をあけて、露店をやるようにニュートンをさわりはじめた。
それはもう、見事な製品だった。ドラッグアンドドロップに統一された操作性。深いグリーンの流線型で統一されたボディ、ギミックに凝ったスタイラスペン、美しく輝くバックライトは暗闇に映えて、あやしい猫の瞳のようだ。持っていてなぜなぜしているだけで、幸せな気分になれるのだから、まるでペットセラピー。かわいくて、もうかわいくて。
関西に戻ってすぐに、ニュートン関連の記事がある雑誌や、ムック、活用本の類を買い漁った。
しかし、やがてその蜜月にも、終わりが来るのだった。
ニュートンは、とてつもなく遅い機械だった。文字の認識だけで1秒くらいかかった。これはマジで遅すぎる。画面の切り替えや階層の移動も、いったい何秒かかっていたのか。ソフトキーボードというのも、せこくて全然いけてない。日本語を使うのに、このソフトキーボードが前提になっている部分があって、どうも不自然だ。メモリーも食うし、日本語を使うのにストレスがありすぎた。
じゃあ、日本語使わなきゃいいじゃん。
すた坊はシステムを、全部英語に変えた。あほである。住所録もすべてローマ字で打ち込み、自分に「おれはアメリカ人だ」といいきかせながら、メモもなるべく英語で書くようにした。
「I meet a friend at ten」とか入れていた。
すた坊の頭の中は、SVOCの構文が乱れ飛び、日常のすべての出来事は、まず動詞から表現するようになった。
わたしは、食べます、それらのカステーラを。
おお、なんとおいしそうに見えるのだ、それらは。
もっとも大きな喜びだ、私にとってそれらを食べることは。
そうすると、少しは使う上でのストレスが減ったような気がした。あくまで、使用上のスピードに関してだけだが。「Find」のコマンドを使えば、ニュートンは融通の利いた検索をしてくれた。電話の発信音も出せるので、本体を電話の受話器にあてて、住所録からかけたい番号を選ぶと、「ピポパピピ」とかけてくれた。
無駄だけど、かわいかった。
やがてすた坊はニュートンのパネルをひらかなくなってしまった。電話は名刺を調べてかけるし、スケジュールも、再び紙の手帳を使うようになった。やはり、「無理して機械にあわせている」という感じは、不自然なものだった。いつも持ち歩き、使い込むうちに、どうもこれは、思い違いをしていたようだと、さすがのすた坊でも気がついたのである。
ニュートンはすばらしい技術で、でも、使いにくいものだ。
だが、その使いにくさを隠してしまうなにかが、この機械にはあった。確かにあった。それは「未来」というか、スタイルというか、人間と機械との、幸せな関係を予感させてくれる何かだ。それでも、実際にはニュートンは全然売れず、1年後にはPDAの市場からすっかり姿を消してしまった。この技術が花開く前になくなってしまう原因として、「エバンジュリスト」と名乗る、熱狂的な人たちの存在があるだろう。特に、雑誌などのメディアで取り上げられるニュートンは、使いにくい、遅いなどのマイナス情報はネグレクト(無視)され、その思想の先進性、デザインの優美性が論じられ、「これがわからない奴は、クールじゃない」みたいな記事にまみれていた。ニュートンが「マニアたちの玩具」としてしか拡がらなかったのも、彼らに責任の一端があるはずだ。
使えない道具を、あたかも便利なように評価して、ちょっとだけ知的な好奇心を刺激するような記事を書く。もともとパソコン雑誌の持っている性質でもあるが、ユーザーに対してフェアじゃない。
すた坊にとってニュートンは、本当にいろいろなことを考えさせる機械だった。
もうPDAはこりごりだ。おれにはメモ用紙があり、デスクトップがある。すた坊の興味は偏執化していった。ボールペンなんかに凝り出して、パーカー、クロス、モンブラン、ロットリング、ラミー、あらゆる種類を試した。その中でもクロスとラミーが、今後のすた坊の愛用ボールペンになる。すた坊は筆圧が強すぎて、シャープペンシルや万年筆は使えないのだった。長時間の作業はデスクトップで、しかもSE/30という、マックの中でも古参の機械を使い出した。白黒の9インチモニター内臓一体型。マックの中でも最高のデザインと謳われている機種だ。
分解から始まって、お風呂に入れたりして洗って(マジで)、HDは初期化、システムは英語、テキストエディタと電子メールだけを使った。無駄なものは一切ない、いちから自分で環境をつくりあげた、とても愛着を感じるマシンだった。ソフトも最小限で、もっとも安定したものを使っていたし、さらにRAMディスクという究極の記憶装置をふんだんに使ったので、きびきびと動作した。
キーボードにもこだわった。GSキーボードという、アップル製品の中でもっともコンパクトで最高のタッチであるものから、NEXTキーボード、ハッピーハッキングキーボード、アジャスタブルキーボード、すた坊の冒険はとどまることを知らなかった。
アイディアをメモにまとめ、じっくり腰を据えて、気に入ったマシンでかたちにする。
これで、いいじゃないか。
すた坊は、心の彼岸にたどりついた。
メモはコピー用紙の裏を使った。A4サイズを4等分して、のりでくっつけたお手製のメモだ。書いては破り、破っては捨てる。次々にたまっていく、すた坊のメモ。昔と違って、すた坊には仕事があった。自分で考え、施行錯誤して、社会とつながるための、様々なアイディア。そして、そのアイディアはパソコンという、素晴らしい機械を通してかたちになっていく。
なんて楽しい作業だろう。アナログとデジタルとの、素敵な融合。
そして、そんなすた坊の安らぎは、再び1台のマシンに壊されることになる。
USロボティクス社の、PalmPILOT。後にロボティクス社は3COM社に買収される。
ちょうどこの頃、PalmPILOTプロフェッショナルという新機種が出たばかりだった。メモリーは1Mに増え、通信はTCP/IPを標準でサポートしていた。TCPに対応しない不便さは、ザウルスとニュートンで懲りていた。マックでさえも、漢字トーク7.1では標準対応ではなく、MacTCPというコントロールパネルをインストールしなくてはならなかったし、さらに7.5になってからも、安定している環境とは言い難かった。スペックは貧弱だし、値段も安いとはいえない。でも、動作は非常にきびきびしていて、アクセスしたい情報をすぐに取り出せる。
この機械は、一度使ってみないと、その良さは伝えにくい。本当に、手帳代わりになるんだ。
山田という、日本語環境を開発した男が、そう語っていた。実に確信に満ちた、それでいて押し付けがましくない態度だった。
いやあ、それは嘘だろう。すた坊は条件反射でそう思ったのだが、心の奥の方では、なにか今までと違う空気を感じ取っていた。それは、雑誌などで語られるパームの利便性が、実感を持って語られているということだ。すでに何千本ものアプリケーションが開発されていて、フリーウェアも多かったし、シェアウェアでも10ドルとかその辺だった。いくつかニュースサイトがあったし、アメリカのFAQのページには、なかなかアクセスができないくらいだった。ハードウェアの改造方法もいくつか試されていた。そういった場所にすた坊が感じたもの、それは「飾り気のない情熱」そういったものだった。
ようし、使ってやろうじゃないか。
結局、すた坊の安らぎは、1ヶ月しかもたなかった。
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